脳の中に腫瘍ができる脳腫瘍は、やっかいな病気です。
腫瘍が悪性の場合は命にかかわり、良性であっても、できた場所や大きさによって、さまざまな症状を引き起こすことがあります。
脳腫瘍の切除手術はかなり難易度が高く、手術後にマヒや言語障害などの後遺症が生じてしまうことも少なくありません。
しかし近年、後遺症の起こりにくい「覚醒下手術」が注目を集めています。
通常は全身麻酔で行う手術を、全身麻酔を用いずに患者さんの意識がある状態で行う手術です。
この手術を数多く行っている、がん・感染症センター都立駒込病院脳神経外科の篠浦伸禎先生に詳しいお話を伺いました。
【取材・文】山本太郎(医療ジャーナリスト)
解説者のプロフィール

篠浦伸禎(しのうら・のぶさだ)
がん・感染症センター都立駒込病院脳神経外科部長。
1958年生まれ。東京大学医学部卒業後、富士脳障害研究所、都立荏原病院、国立国際医療センター勤務、シンシナティ大学分子生物学部留学等を経て2009 年より現職。脳の覚醒下手術で世界トップクラスの実績を誇る。著書に『脳にいい5つの習慣』(マキノ出版)、『脳腫瘍温存のための治療と手術』(主婦の友インフォス情報社)などがある。
●がん・感染症センター都立駒込病院脳神経外科
http://www.cick.jp/nouge/
良性であっても放置してはいけない
――まず脳腫瘍という病気について教えて下さい。
篠浦:脳腫瘍とは、脳組織の中に異常な細胞が増殖する病気です。
よくある病気ではないものの、かといって、まれでもない、というところでしょうか。
患者数は従来「1万人に1人程度」といわれていましたが、臨床での印象からすると、近年もう少し増えていると思われます。
脳腫瘍は、脳の細胞や神経、脳を包む膜から発生する「原発性脳腫瘍」と、他の臓器のガンが脳に転移する「転移性脳腫瘍」の2種類に大別されます。
原発性脳腫瘍のほうが多く、全体の約85%を占め、子どもから高齢者まで幅広い年代に見られます。
一方、転移性脳腫瘍は若い世代にはまれで、中高齢者に多く見られます。
また、腫瘍が周囲の組織に入り込んで急速に広がっていく性質のものを「悪性腫瘍」とし、周囲の組織を圧迫しながら、ゆっくりと大きくなっていく性質のものを「良性腫瘍」と区別しています。
ただし、良性腫瘍だからと安心できるわけではないのです。
というのも、腫瘍が大きくなっていくことで、さまざまな症状が生じてくるからです。
脳腫瘍の症状は「局所症状」と「頭蓋内圧亢進症状」とに分けられます。
局所症状とは、脳腫瘍が発生した部位の脳機能が圧迫などにより低下する症状です。
例えば、腫瘍によって体の動きをつかさどる部位の「運動領」が圧迫され、手足のしびれやマヒなどの症状が現れるのは、典型的な局所症状です。
ほかにも、圧迫された箇所によって言語障害や視覚障害、聴覚障害など、さまざまな症状が現れます(下記参照)。
頭蓋内圧亢進症状とは、頭蓋骨という限られた空間の中に脳腫瘍があることにより、脳全体の圧が上がった影響で起こる症状です。
初期症状として、頭痛やおう吐、視界がぼやけるなどの視力障害があります。
さらに脳の圧が上がると「脳ヘルニア」という重篤な事態を引き起こすことがあります。
腫瘍が大きくなった分だけ脳の容積が増して、ほかの部位に飛び出し、脳幹などの重要な部分が圧迫されて障害されるものです。
突然、呼吸が停止して、死亡にいたることもあります。
良性腫瘍は一般的にゆっくり発育するため、マヒなどの自覚症状が出たときには、すでにかなり大きくなっており、周囲の脳組織が傷んでいることがしばしばあります。
一方、悪性腫瘍は初期の小さなときから周囲の脳の腫れや、むくみなどによって局所症状が現れることが多いものです。
いずれにせよ、何か気になる症状が見られた場合には、早期に専門の医療機関を受診することをお勧めします。

腫瘍の摘出には後遺症のリスクがある
──診断や治療はどのように行われるのですか?
篠浦:脳腫瘍が疑われた場合、まず画像による検査を行います。
一般的な検査としては、CT(コンピュータ断層撮影)とMRI(磁気共鳴画像診断)があります。
CTやMRIによって、腫瘍の悪性度や組織診断を、ある程度まで推測することができます。
さらに、手術が必要だと診断された場合、血管撮影(脳の血管に造影剤を注入して撮影するX線検査)やfMRI(脳が活動している領域を検出できるMRI)、トラクトグラフィー(神経線維を見ることのできるMRI)などの検査を追加することで、手術を安全に行うためのより有用な情報を得ることができます。
ほかに血液検査を行うこともあります。
脳腫瘍が発見された場合、どんなタイプのものであれ、腫瘍を取り除くことが治療において最優先となります。
そのためには、手術、放射線療法、抗ガン剤などの化学療法の三つの組み合わせとなりますが、腫瘍の除去に最も効果的なのは手術です。
ただし、ここで脳腫瘍特有の問題が生じます。
治療効果を上げるには、できる限り腫瘍を摘出するのが望ましいわけですが、それによって脳の機能を損ない、さまざまな後遺症が生じるリスクがあるということです。
重要なのは脳の機能の温存
私は、機能が悪くなってもいいから、とにかく腫瘍を摘出して延命に結びつけるのではなく、脳の機能を極力温存し、その人らしい状態をいかに長く保つかに重きを置くべきだと考えます。
手術による侵襲(体を傷つけること)というマイナスを補って、結果がプラスに働く見込みのある場合のみを「手術適応」とすべきであり、その判断には慎重に慎重を期さねばなりません。
もちろん、手術によって一時的に脳の機能が落ちても、長い目で見て機能の回復や温存につながるケースもあります。
例えば、良性腫瘍で現在はなんともないが、手術をしないでいると将来歩けなくなったり、手が動かせなくなったりする可能性が高いので、それを防ぐ目的で行うというものもあります。
患者さんの年齢やライフスタイルによっても、そうした予防的な意味合いの手術を受けたほうがいいかどうかは変わってきます。
手術を受けた場合と受けない場合のどちらがいいか、「時間」という軸も含めて、判断することが重要です。
私は長年、機能温存ということを最大の目的に手術をしてきましたが、そこで行きついた結論が「覚醒下手術」という方法です。

患者が起きている状態で行う手術
──どのような手術なのですか?
篠浦:開頭手術(頭蓋骨を切り開いて脳を露出させる手術)は通常、全身麻酔下、つまり、患者さんに意識のない状態で行います。
それに対して覚醒下手術は、患者さんが完全に起きている状態で行う手術です。
脳自体には痛覚がないため、覚醒下手術が可能なのです。
日本ではまだほとんど普及していませんが、世界的には20年ほど前から始まり、欧米では近年、全身麻酔下で行う手術よりも、治療成績が向上するとの報告が多数出てきています。
私たちは2003年から覚醒下手術を開始し、これまでに400例近くを手がけています。
覚醒下手術の最大の利点は、手術中にずっと患者さんの症状が悪化しないかどうかをチェックしながら行えることです。
まず、わかりやすく具体例を紹介しましょう。
30代の女性Aさんはある日、突然のけいれん発作が起こって失神し、病院に救急搬送されました。
検査の結果、神経膠腫(グリオーマ)という脳腫瘍があると判明しました。
大学病院で、すぐに開頭手術をすべきだが、言語領に腫瘍があるので言語障害が残る可能性がある、と言われたそうです。
Aさんは仕事の都合上、言語障害が残っては困ると、当院にセカンドオピニオンを求めに来られました。
直径3㎝ほどの腫瘍が脳のかなり深い場所にあり、きわめて難しい手術が予想されました。
1年ほど経過観察し、覚醒下手術に踏み切ることになりました。
言語や手指を動かすなどの機能を慎重にチェックしながら、手術を進めていきました。
具体的には、脳の表面に電極を当て、電気刺激でその部分の脳の機能を一時的に落として、その部位を切っても大丈夫かどうかをチェックするのです。
例えば、ある部位に電気刺激をしながら手を握ってもらうと、うまく握れなくなったとすれば、そこを切ると術後に手のマヒが出てしまうことがわかります。
あるいは、絵を見せて描かれたものの名前を言えなくなったとすれば、言語障害が生じる恐れがあるということですから、その部位を避けて手術を行うわけです。
手術は5時間に及びましたが、無事に腫瘍を摘出できました。
Aさんはマヒや言語障害などが出ることもなく、元気に回復されて仕事に復帰し、その後に結婚・出産もされています。
従来の手術法は博打のようなもの
覚醒下手術の優れた点

──患者さんの状態がチェックできるというメリットは大きいのですね。
篠浦:覚醒下手術では、もし手術中に症状が悪化したら、そこですぐ手術をいったんストップします。
症状が回復すれば続行します。
回復しない場合でも、そこで手術を終了すれば、ほぼすべての症例で1ヵ月後には症状が回復します。
全身麻酔では、悪化したことがわからずに手術を続けた結果、術後に手足が動かない、言葉が出ないといった悲劇が起こる可能性があるわけです。
特に、手術が難しい運動領のような場所に起きた脳腫瘍では、その差が大きく現れます。
従来の全身麻酔下の手術では、よくなる例と悪くなる例が半々くらいと博打のようなもので、私たちも覚醒下手術を導入する以前はずっと泣かされてきました。
しかし、覚醒下手術では、手術中にマヒが悪化したため、そこで手術を中止した場合には、1ヵ月後に手術前よりもマヒが悪化した例はこれまで1例もありません。
また、覚醒下手術で最後まで腫瘍を摘出した患者さんのうち、マヒが悪化したのは、全体のわずか4%でした。
なお、個人差はありますが、起きたまま脳の手術を受けるので、患者さんのストレスは確かに小さいとは言えません。
手術の前に採血をすると、ストレスを感じている指標のアドレナリン量がかなり上がります。
しかし手術が進むにつれて、患者さんも落ち着き、正常値に戻ってきます。
中には、自分の手術をずっとモニターで見ていて、終わった瞬間に「楽しかった!」とおっしゃった女性の患者さんもいました。
最後にもう一つ、覚醒下手術を行うとこれまで知られていなかった脳の機能がわかってくるという、興味深い面があります。
例えば、左の扁桃体たいという部位の近くを手術すると、手術中に患者さんが急に怒りだして、攻撃的になるケースが多いのです。
一方、右の扁桃体という部位の近くで手術をすると、逃げようとしたり、眠くなったりするなど、逃避的な言動が目立つようになります。
それぞれの感情のコントロールにかかわる機能が、低下したためだと考えられます。
脳機能の研究が進んできているとはいえ、まだまだわからないことだらけです。
実際に脳の部位を刺激してみて、初めてわかることが多くあるのです。
こうした知見を積み重ねていくことができれば、より安全な手術の確立にも役立つと考えられます。