解説者のプロフィール

別所キミヱ
1947年、広島県出身。40代で難病に罹患し、生死をさまよい数度の大手術で一命を取り留めたが、両下肢の麻痺が残り車イス生活となる。再起し、45歳から卓球に取り組む。練習と負けん気の強さから兵庫県代表、国内代表と極め、2004年には日本代表でアテネパラリンピック出場。08年に北京、12年にロンドン、16年にリオデジャネイロパラリンピックに4度の連続出場を獲得する。現在、日本郵政グループのスポンサー契約と、卓球メーカー「バタフライ」(株)タマスのアドバイザリースタッフ契約(用品用具)を受ける。
仙骨にガンができ45歳で車イス生活に
私が卓球を始めたのは45歳のとき。
車イスの生活になってからです。
39歳のとき、クモ膜下出血(※脳の表面を覆う膜の一つであるクモ膜の下に出血がある状態で、突然死の原因となる)で突然、夫を亡くしました。
そして、その2年後に、私自身も仙骨巨細胞腫という、仙骨にできるガンになったのです。
2度の大手術で腫瘍はなんとか取り除けましたが、それには神経を切らざるを得ませんでした。
そのため、術後は歩けなくなり、私は44歳で車イス生活になったのです。
当初は、「車イスでどうやって生きていけばいいのだろう」と、途方に暮れました。
「お気の毒に」という目で見られるのが嫌で、退院後はずっと家に閉じこもっていました。
「いっそ死んでしまいたい」と思ったことも、何度もあります。
家族や友人に支えられ、ようやく前向きな気持ちを取り戻し、車イスで外出できるようになったのは、退院から1年後のことでした。
ある日、新聞記事を見て障害者スポーツに興味を持った私は、県立の身体障害者体育館に見学に訪れました。
そこで車イスを軽快に操り、いきいきとプレイする選手を見て、「私もスポーツをやりたい!」という気持ちが初めてわき起こってきたのです。
そして選んだのが、卓球です。
「室内で気軽にできそう」というのが、その理由でした。
もともとスポーツは好きで、ママさんバレーやソフトボールはやっていましたが、卓球はまったく初めてでした。
それでもやり始めるとおもしろく、練習を重ねるうちに、私はめきめきと上達していきました。

人の倍以上の練習で若い選手と戦う
卓球を始めて3年目の48歳のときには、広島国体に出場し、優勝しました。
その後、国内での好成績が認められ、52歳で初めて国際大会への出場を果たすのです。
本気で世界を目指し始めるようになりました。
幸運にも恵まれ、2002年には選手が1人棄権したことで私が繰り上がりとなり、4年に1度の世界選手権大会に出場することができました。
その大会でベスト4入りし、世界ランキング12位に浮上。
それからも必死で遠征費を工面しながら数々の国際大会に出場し、世界ランキングを8位まで上げて、ついには2004年、アテネパラリンピックの切符を手にしたのです。
以降、2008年の北京、2012年のロンドン、2016年のリオデジャネイロと、4度のパラリンピックに連続出場しています。
昨年、リオに行った時点で、私は68歳になっていました。
もちろん日本選手の最年長です。
海外の対戦相手も19~51歳。
娘や孫の年齢です。
今年で70歳になる私が、若い選手たちと対等に競い合えるのは、ひとえに日ごろの練習のたまものです。
雨の日も風の日も、私は人の倍以上は練習していると自負しています。
今でこそスポンサーがつき、コーチの指導が受けられるようになったものの、それまでは遠征費用の捻出も、卓球の練習も、健康管理も、すべて自分でやるしかありませんでした。
ですから、私はそのつど自分に何が必要かを考え、創意工夫してトレーニングを行ってきました。
その中で、動体視力と脳を鍛えるために考え出したのが、お手玉を使った訓練なのです。
卓球に必要な動体視力を「お手玉」で鍛える
卓球は、返ってくる球に一瞬で反応しなければならないため、いちいち首を動かして見ていたのでは間に合いません。
目だけを動かし、いかに素早く、広い範囲を見るかが重要になります。
あの福原愛選手も、そうした広範囲を素早く見る動体視力が、飛び抜けて優れているそうです。
そこで、私は体幹を鍛えるために始めたお手玉に、文字を書くことを思いつきました。
平仮名、数字、アルファベットなどをランダムに書き、片手で3個順番に投げながら、上へ上がったお手玉に書かれている文字を目だけで追って読んでいくのです。
私はこれを、ヒマさえあればやるようにしました。
家でやるのはもちろん、常にカバンに入れて持ち歩き、仕事場や外出先でもお手玉をやっています。
脳を鍛えるために、利き手と反対の左手でお手玉の練習もしています。
左手を使うと右脳が働きます。
左脳は運動、右脳は集中力や考える力を司るそうです。
年齢とともに、どうしても集中力や考える力は衰えます。
それを鍛えるためにも、左手を使おうと考えたのです。
脳と目はつながっていると思うので、脳を鍛えることはきっと目にもいいはずです。
ほかにも、ソフトボールに字を書いてヒモで吊るし、振り子のように揺らしながら文字を読む訓練もしています。
食事をするときは、マス目に無作為に数字を書いた紙を正面に貼り、目だけを動かして斜めに数字を読みながら足し算をしています。
紫外線を避けるためにサングラスは1年中かけていますし、目にいいと聞き、ブルーベリーのサプリメントも飲んでいます。

視力はアップし今でも老眼はない
よいと思ったことは、とにかく試してみるのが私流です。
自分で考えて工夫するのは楽しくもあり、人から言われてやるよりも身になる気がします。
結果はすぐに出ないまでも、日々の積み重ねで動体視力は確実に鍛えられたと思います。
それどころか、普段の視力も右0・7、左0・6だったのが、いつしか1・0と0・9に上がりました。
この年で老眼もありません。
喫茶店でも友達が老眼鏡をかけてメニューを見ている中、私はメガネなしで見ることができます。
メンタルの支えに斎藤一人さんの「天国言葉」
目以外の健康にも気をつけていて、朝はコマツナジュースを作って飲んでいます。
ガン予防に、ミカンの皮を干して砕いたものをスプーン1杯、スープに入れて飲んだりもしています。
昼は玄米のおにぎりを手弁当にし、夜は粗食で腹八分目を心がけています。
2年前に胃の調子を悪くして「刺激物はよくない」と言われてから、大好きなカレー、ワサビ、七味、キムチなどもやめました。
その甲斐あってか、今は健康診断ではすべて正常値です。
胃カメラ検査の結果、胃も健康な状態でした。
世界で戦うには、メンタルも大事です。
試合で海外へ行く前には、必ず、斎藤一人さんの本を読み返します。
斎藤さんは「うれしい」「楽しい」「感謝しています」「ありがとう」などの言葉を「天国言葉」と呼んで、そういう言葉を話すことが強運につながると書いておられます。
私もそれにはとても共感します。
名取芳彦さんという僧侶の、「どんな不幸を吸っても、吐く息は感謝でありますように」という言葉も大好きです。
私は1度目の手術で60人、2度目の手術で80人のかたに血液をいただきました。
今こうして生きていられるのは、そのかたたちと、全力を尽くしてくださった医師のおかげです。
口に出さなくても、心の中には常に感謝の気持ちを持っています。
おしゃれも大好き。
特にチョウが好きなので、百円均一でチョウのアクセサリーやグッズを探すのが楽しみです。
ネイルもこだわりの1つです。
そうやっておしゃれをすることで、テンションを上げています。
車イスになって卓球を始めなければ、こんなにしょっちゅう海外へ行くことはまずなかったでしょう。
世界は私にとって魅力にあふれています。
日本だけでは体験できないスケールの大きさ、いろんな国の人と仲よくなれる楽しさがあります。
言葉がわからないながらも、持ち前の明るさでコミュニケーションを取っていると、みんなが「バタフライマダム」と親しみを持って声をかけてくれるのです。
今は、車イスになってよかったとすら思えます。
「次は2020年の東京パラリンピックを目指す」なんて、軽々しいことは言えません。
今の一番の目標は、来年の世界選手権に出場することです。
限界を決めるのは自分自身。
やれる限り卓球は続けるつもりです。
その先に運とチャンスがあれば、東京パラリンピックにも出られるかもしれません。
まずは目の前の目標を達成するために、トレーニングと健康管理をしっかり継続していきたいと思います。