ヒトは手を使うことで脳が発達してきた
人間を含めてサルやチンパンジーなどの霊長類は、手でものをつかめます。しかし、霊長類の中で人間を際立たせているのは、ものをつかむだけでなく、手の指を使って精巧な道具を作ったり、自分の意志を他の人に伝えたりできることです。
これが人間の脳で最もたいせつな「前頭連合野」の働きと重なっていることが研究でわかってきました。つまり、人は手を使うこと、特に指を使うことで前頭連合野を鍛えることができるのです。その意味で「指は第2の脳」と言えるでしょう。
前頭連合野は大脳の前側で、私たちの思考・意欲・情動などを実際の行動に変換する場所です。例えば、手を使って何かをする場合、前頭連合野から脳の中央に位置する「運動野」に指令が届き、そこが手の関節や筋肉を動かして、はじめてその行動ができます。
こうした行動のための記憶を「ワーキングメモリー」といい、前頭連合野の重要な働きの1つとなっています。今現在のことを覚えておく能力で「短期記憶」ともいわれます。
サルで30秒、チンパンジーでも3分しかワーキングメモリーが保持できません。人間だけが数日、ときにはそれ以上、ワーキングメモリーを保つことができます。人間が「未来」という概念を持ち、手を使って物事を計画的に遂行できるのは、この能力があるからです。
中でも、ワーキングメモリーの要となる部位が、前頭連合野の前の部分にある「10野」です。この10野こそ、人間の脳でだけ肥大化が著しい部位です。つまり、ここに人間の頭のよさの根源があると言えるでしょう。知能の高いチンパンジーですら、10野はほとんどないくらい小さなものです。

指先を使わないと脳は活性化しない
人間の脳は手を使うことによって進化してきました。手をよく使えば、手からの信号が多くなり、それを受け取る脳の領域が発達し、脳の神経細胞の連絡網であるシナプスが増えたり、強靭になったりします。そうしたことを繰り返すことによって、著しく発達してきたのが10野だと考えられます。
ただし、脳の活性化にはコツがあります。手の握り方には、指先で小さなものをつまむ精密把握(プレシジョングリップ)
と、手のひらで重いものや硬いものを握る強制把握(パワーグリップ)の2種類があります。このうち、ワーキングメモリーがよく使われるのは、指先をよく使う精密把握なのです。
前頭連合野が「手を動かせ」という指令を発すると、古くから知られている脳の中央部にある運動野が働くと記しました。ところが最近、脳の中央にある中心溝の奥深くに、新しい運動野が発見されました。しかも、強制把握は古い運動野、精密把握は新しい運動野が担当していることがわかってきました。
脳を効率よく活性化させるには、指先をよく使う精密把握と、手のひらで握る強制把握の両方を鍛える必要があります。
特に重要なのが精密把握で、認知症や脳機能障害のリハビリで改善を期待するには、とりわけ重要になります。
脳を活性化させる「指の握り方」

脳に障害を受けた患者がリハビリで回復
以前、リハビリ療法で有名な大阪の病院で患者を診察・治療する機会がありました。そして今説明したことを治療に応用したところ、リハビリに大きな進展が見られたのです。
交通事故で頭を打った高校生がいました。普通に話ができますし、見た目は健常者と同じですが、朝起こそうとしても起きないし、よく聞くと話す内容は支離滅裂。じっと座ることができず暴れるので、高校にも通えなくなっていました。「こんなに脳が壊れていたら、もう治せない」と多くの医師がさじを投げたために、私が診ることになりました。
彼は、交通事故で脳の10野の付近が機能しなくなっていたのです。そこで作業療法の1つとして指先を使う精密把握などのリハビリを繰り返させたところ、徐々に回復し、高校も、大学も無事に卒業できました。
これは人ごとではありません。中高年になると日常生活で指先を使う精密把握の機会が少なくなり、油断していると脳の老化が進みやすくなると考えていいでしょう。ぜひ、いつでもどこでも簡単にできる「手の指体操」で脳を鍛えてください。
解説者のプロフィール

くぼた きそう
1932年生まれ。57年東京大学医学部卒業、同大学院に進み、脳神経生理学を学ぶ。その後、米国留学を経て、京都大学霊長類研究所教授、所長を歴任。世界で最も権威がある脳学会「米国神経科学会」で行った研究発表は、100点以上と日本人としては圧倒的に多く、現代日本における「脳科学」の最高権威である。著書は『手と脳』(紀伊國屋書店)など多数。